【被爆の証言】「 サダコと折り鶴の話 」8月4日(火) 14:00~16:00
「原爆の子の像」モデルとなった佐々木禎子(ささきさだこ)さんの同級生、川野登美子(かわのとみこ)さんのお話
私(川野登美子さん)は被爆当時3歳。佐々木禎子さんは小学校の同級生で、大の仲良しでした。禎子さんと私は足が早くて、かけっこが得意だったので、6年生の時、二人は学級対抗リレーの選手に選ばれました。禎子さんは普通の男子よりも早いくらいでした。1954年10月25日、運動会の学級対抗リレーでは、禎子さんの活躍もあり、私たち6年竹組は、他のクラスにトラック半周の差をつけて断トツの優勝。しかし、そんな禎子さんも11月に入ると体調を崩し、翌年の1月にABCC(原爆傷害調査委員会:原爆による傷害の実態を調査記録するため、アメリカが設置した民間機関~被爆者をモルモットにしているとの声があった)で診察を受け、2月には病院に入院します。そこで私たちは、クラスの仲間たちと会を作ってお見舞いに行きました。禎子さんは病院で、千羽鶴を折れば元気になると聞き、折紙や薬の小さな包み紙を使って、千羽鶴を折り始めます。折り鶴は1,000羽を超え1,300羽に達していたようです。しかし、願いは叶わず、禎子さんは、運動会の1年後の10月25日に12歳で亡くなりました。ベッドからは、赤血球と白血球の数を記録した紙が見つかります。白血球が一定の数値を超えると死ぬと知り、禎子さんは人知れずカルテを見て記録していました。自分は白血病だと自覚していたのです。禎子さんの辛さを考えると胸が張り裂ける思いです。
禎子さんが亡くなり、みんなでお墓参りに行こうという話になりましたが、お墓が遠いところにあるため中々行けません。しかし、その後も広島の子どもたちは次々と原爆症で死んでゆきます。そこで、みんなで亡くなった子どもたちの慰霊碑を立てよう、そのお金を集めようと決めたのです。そして、11月に広島で開催された全国中学校長会で、同級生8人が2,000枚のビラを配って協力を呼び掛けました。その後、全国の中学校からも寄付金が寄せられるようになり、12月に入ると広島市内の小・中・高校にも活動の参加を呼びかけ、『広島平和をきづく児童・生徒の会』が組織されました。
翌年(1956年)には、街中での募金活動が繰り返し行われ、年末までに540万円もの寄付金が集まり、「原爆の子の像」は完成しました。そこには、「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」と刻まれています。私たち6年竹組のみんなは、中学時代のほとんどを像の建立に費やしました。
オンライン碑めぐり(ガイドの新谷美樹子さんによる解説)8月5日(水) 9:30~10:30
原爆ドーム
当時は広島県産業奨励館と呼ばれていました。戦後、広島市議会で保存し残すことが正式に決定され、その費用は、全国からの募金で賄うことに。1996年にユネスコの世界文化遺産に決定。
原爆の子の像
子どもたちが呼び掛けて作られた像。1958年5月5日の子どもの日に除幕式が行われました。全国から集められた折鶴が、毎年1000万から1200万羽展示されます。
折鶴は現在、リサイクルされて、“折鶴再生紙” として名刺やノート、カレンダ-、折紙などに利用されています。
平和の灯(ともしび)
世界から核兵器がなくなるまで灯し続けられます。
原爆供養塔
はじめは2,432名の遺骨が安置されていました。中には、名前がわからない方の遺骨や朝鮮や中国など外国人の遺骨も安置。現在も825名の遺骨が収められています。
広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)
広島平和記念公園の敷地内の、広島平和記念資料館と原爆ドームの直線上に設置。「原爆犠牲者の霊を雨露から守りたい」として、屋根の部分が埴輪の家型をしている。
中央の石棺には、国内外を問わず、死亡した原爆被爆者全員の氏名を記帳した名簿が奉納されています。
広島市立高等女学校原爆慰霊碑
8月6日は、建物疎開(空襲による火災の延焼を防ぐための建物の解体作業)を行っていて、他の動員先を含め676人が被爆死しました。市内の学校では最も多くの犠牲者を出しています。慰霊碑には犠牲者の名前が刻まれています。
また、レリーフには、中央の「E=MC2」と刻んだ箱を抱え天使の翼をもつ制服・モンペ姿の少女は、犠牲者を表し、両側から友のささげる花輪(慰霊)とハト(平和)に守られています。E=MC2は原子力エネルギーの公式です。連合軍の占領下で「原爆」という文字が使用できなかった当時の事情を表しています。
被爆体験伝承講話8月5日(水) 11:00~12:00
「被爆体験を受継ぐ方の被爆の実相や思い」伝承者 沖吉 幸子(おきよしさちこ) さん
実際に体験していないことは伝えられないと言われていましたが、75年たった今、それも限界。伝承者の育成が急務です。広島市や長崎市では伝承者育成のシステムがあります。何とかしなければとの思いで伝承者になりました。
被爆者の新井俊一郎さんが体験されたお話です。新井俊一郎さんは当時14歳。中学生は2・3年は工場勤務、1・2年は農村動員と称して食糧増産のために農家で手伝いを行っていました。
新井さんは動員された農家での作業中に原爆投下を知り、広島に向かいました。その途中、数えきれないほど多くの被爆者と遭遇します。
被爆者たちは幽霊の姿そのままに、誰もが両手を体の前に出して、指先からは包帯かボロ布のようになった皮膚を地面に引きずっていました。静かに歩いてきた群衆の中から次々に倒れる人々。瀕死の大やけどを負いながらも倒れた人を避けて歩く人々。せまい道路には、全身を焼かれた動かない人間の山が積み上げられていました。広島は燃え上がり、壊滅していることは明らかでした。その時、群衆の足元から幼い姉妹が現れ、スローモーションのように自分の横を通り過ぎました。風船のように顔が膨れ上がり、互いに手を握り合ったまま「しっかりねっ」という姉の声を残して被爆者の群れの中に消えました。何とか助かってほしいと願わずにはいられなかったそうです。
その後、何とか自宅に帰り、父母と再会しましたが、父母は全身にガラスの破片が突き刺さり、血だらけでした。
新井さんはこうおっしゃっています。原子爆弾は抑止力とはならない。「被爆の実相こそが、真の抑止力です」と。
家族・交流証言者による講話8月7日(金) 9:30~10:30
「祖母・細田ウメ子さんの被爆体験を語る」三根 礼華 さん
「家族証言者」は被爆体験継承の一つの形です。祖母と一緒に暮らしていて体験を聞き、語り継ぎたいと思って、始めました。子供の頃学校の授業で、被爆50周年の平和教育の一環で、みんなで原爆について調べました。その後、大学でも原爆について調べています。現在では、要請に応じて他県でも講演活動を行っています。
祖母の細田ウメ子は、1945年は23歳でした。当時は、兵士に食料を送るために食料は配給制で厳しい生活が続きました。また、親しい方々を出征で多数失いました。その頃は連日、空襲警報が夜中の12時頃に鳴り、大変だったそうです。
8月9日、午前11時2分に長崎市の上空500メートルで原爆が炸裂、当時の人口24万人のうち死者が74,000人、負傷者は75,000人。水を欲しがる被爆者に水を与えて、その後、同じ場所に来てみると、その人は死んでおり、自分のせいで死んでしまったのではないかとずっと自分を責め続けています。その後、終戦を迎えても、食糧難や田畑の再生で大変な経験をしたそうです。
被爆の証言8月7日(金) 11:00~12:00
「被爆の証言 末永 浩さんに聞く」末永 浩 さん
小学校4年生(9歳)の時、祖母の諫早の家にいて原爆に遭遇、白い光の後、ドーンというものすごい音がしました。その後、長崎に入り被爆しました。現在は各地で被爆体験を講演しています。
アメリカでも数回講演しています。アメリカの聴衆には、「リメンバー・パールハーバー」とよく言われました。それに対しては、謝罪をしています。しかし、原爆による惨状は比較にならない程大きいし、これからも核の危険性は続きます。核兵器は絶対に使用してはいけない。
日本政府は唯一の被爆国として核保有国との橋渡しをするといっていますが、なかなか出来ないでいます。本当に平和を求めるならば、核兵器は地球上から無くすべきです。
視聴に参加した方の感想・意見
オンラインピースアクションは初めての試みですが、大変良い企画だと感じました。
自分が実際に広島に行ったときは、天候が悪く雨にたたられ、ガイドさんのお話もよく聞き取れませんでした。
今回あらためて聞いて、本当に心に染み入りました。
アメリカでは、原爆投下によって戦争を早く終わらせることが出来たという原爆肯定論者がかつては多かった。
しかし、最近では、原爆は使用すべきでなかったとする意見が増えてきている。また、核兵器は廃絶すべきという意見が7割を占めている。
アメリカでも国民の意識が変わりつつあるようです。 |